浅田真央引退会見
2017年4月12日
感謝の気持ち伝えたい
フィギュアスケート女子の2010年バンクーバー五輪銀メダリストで、自身のブログで現役引退を表明した浅田真央が東京都内で記者会見を開き、「私、浅田真央は選手生活を終える決断をいたしました」と述べた。引退理由について「(昨年12月の)全日本(選手権)が終わって、もういいんじゃないかなと思った」となどと説明した。主なやりとりは以下の通り。
《冒頭発言》
みなさん、こんにちは、浅田真央です。本日はお忙しい中、このような場にお集まりいただき、本当にありがとうございます。2日前にホームページで発表しましたが、また改めてご報告いたします。私、浅田真央は選手生活を終える決断をいたしました。長い選手生活だったんですけど、たくさん山がありました。でも、そのたくさんの山を乗り越えられたのも、支えてくださった方々やたくさんのファン方々の応援があったからだと思っています。きょうは感謝の気持ちをみなさんにお伝えできればと思い、このような場を設けさせていただきました。本日はよろしくお願いいたします。
《質疑応答》
―2日前、ブログで引退を発表して、改めて今の心境は。
まず、きょうこの場に入ってきた時にこれだけのたくさんの方がいらしてくださっていたので、ちょっとびっくりしたんですけど、今はちょっと落ち着いています。
―いろんな人から言葉を掛けられたと思うが、印象に残ったものは。
発表してからは本当にたくさんの方が連絡をくださったんですけど、みなさん、「お疲れさま」という言葉を掛けてくださったので、私自身も選手生活を終わるんだなという気持ちになりました。
―親しい人への報告はどのような形だったか。
少し前ですけど、家族だったり友達に報告しました。
―印象に残る言葉は。
みんな、「お疲れさま」「よく頑張ったね」って言ってくれました。
復帰後の挑戦、悔いはない
―どのくらいの時期から引退を考えたのか。
復帰してからいい形でスタートできたんですけど、そこから練習をするにつれて、試合に出るにつれて、今のスケート界の時代はすごいので、私自身もついていけるのかなという思いが強くなったり、あとは気持ちだったり、体の部分で復帰前よりも少しつらいことの方が多くなりました。なんとか1シーズンは乗り切れたんですけど、2シーズン目からはなんとかなんとか頑張ろうという思いだけでやってきました。でも、最後の全日本選手権で、「もういいんじゃないかな」と思いました。
―その全日本から3カ月、どんな思いがあったのか。
やはり、自分が復帰してからずっと掲げてきた平昌五輪に出るという目標があったので、自分で言ってしまったこと、自分が目標をやり遂げなきゃいけないと思っていたので、言ってしまったこととの葛藤はずっとありました。
―全日本がきっかけということだが、いつごろ決心したのか。
全日本が終わってすべて結果が出た時に「ああもう終わったんだな」というふうには思いました。でも、日がたつにつれて、自分が言ってしまったことは今まで最後までやり通してきたので、やらなきゃいけないんじゃないかなという思いの方が強くて、ここまで延びてしまいました。
―平昌五輪への思いを上回るぐらいの達成感があったということか。
ソチ五輪が終わってから、最高の形で終えることができたんですけど、自分の体もまだまだできますし、自分の気持ちとしてもまだまだやれるっていう思いがあったので復帰しました。実際挑戦してみて、もう気持ちも体も自分の気力も全部出し切ったので、今は挑戦して何も悔いはないです。
つらいと思ったことない
―最後の大会となった全日本でトリプルアクセルに挑んだ気持ちは。
最後になるのかなという気持ちはソチ五輪の(後の)世界選手権ほどでなかったですけど、最後、トリプルアクセルに挑戦して終えれたことは自分らしかったかなとは思います。
―初めてスケート靴を履いた時のことは。
私は覚えてないんですけど、5歳だったので。でもヘルメットをかぶって、スキーウエアを着て、肘当て、膝当てをしているのは写真に残っているので、覚えています。
―スケートをやってきて一番楽しかったことは。
小っちゃい頃に、技ができるようになった時というのは本当に楽しい気持ちで、じゃあ次2回転飛びたい、3回転飛びたいという思いがすごく楽しかったですね。
―反対につらかった部分はどう受け止めているか。
つらかったことはそんなになくて。この道を選んだきたのも自分ですし、自分がやりたいと思って望んでやってきた道なので、つらいと思ったことはありません。
―銀メダルだったバンクーバー五輪の思い出は。
19歳だったんですけど、すごく若くて、本当に気が強くて、その強い気持ちだけで乗り越えてきたなっていう感じがします。
―ソチ五輪を振り返ると。
ソチ五輪はやはりショートが残念な結果だったので、気持ち的にはすごくつらい試合ではあったんですけど、フリーでああいう形で最高の演技で終えることができて、あの気持ちの状態から、バンクーバーからソチの4年間の思いをすべてその4分間に注ぎ込めたと思っています。
―自身にとって2度の五輪の経験は。
私の今後の人生においても、すごくいい経験だったり、いい思い出だったのかなと思います。
最も印象に残っているのはソチのフリー
―3回の世界選手権優勝は日本人最多。印象に残っていることは。
2回世界選で金メダルを取った時はすべて五輪の後の世界選だったので、五輪の悔しさを世界選で晴らせた大会だったかなとは思うんですけど。最後の世界選が、一応自分の気持ちの中では最後と思って臨んだ試合だったので、今までのスケート人生をすべてそのプログラムにぶつけた試合だったので、最後の世界選が一番思い入れは強い試合でした。
―現役を振り返って、最も印象に残っている演技を一つ選べと言われたら。
うーん、難しいですね。一つというのは難しくて、でもやっぱりソチのフリーかなというふうに思います。
―やはり、あの時間に込めた思いは大きかったか。
そうですね。やはり気持ちがすごい、今までの試合以上に落ち込んでたり辛かったりした部分もあったんですけど、それでもあれだけの挽回の演技ができたことに関して、そして五輪だったということが一番よかったのかなあとは思います。
―2人のコーチに対しての思いは。
(山田)満知子先生は小さい頃に指導を受けていたんですけど、スケートの楽しさだったり挑戦する楽しさを教えてくれました。スケートだけではなく、いろんなことを教えてくれた先生です。
佐藤(信夫)コーチは大人になってから指導を受けたんですけど、自分の意思もすごく強い方というか、強いので、先生といろいろ話し合いする機会も多かったんですけど、自分の意見もしっかり聞いてくださって、それを静かに見守っていってくれてた先生でした。
―復帰後の2年間の意味は。
ソチ五輪のシーズンで世界選を終えて、自分が選手を終えていたら、今も「まだできたんじゃないかな」というふうに思っていたと思います。でも、自分が望んで復帰をして、チャレンジをして出した結果なので、今は何もやり残したことはないので、そういった意味で、もう一度チャレンジすることができてよかったなと思っています。
フィギュアは「人生」
―今後どんな仕事をしていきたい?
まず本当にもうすぐ、夏にあるのがザ・アイスで、そこでまた選手生活を終えて初めて皆さんの前で滑れるので、いい演技を目指して頑張りたいなと思っています。
―フィギュアスケートにどう携わりたい?
5歳からスケートを始めて今までスケートにお世話になりました。これからどんな形であってもフィギュアスケートに恩返しできるような活動はしていきたいなと思っています。
―日本のフィギュア界について。浅田さんに憧れてスケートを始めた選手たちが、トップスケーターになってきた。そういう環境を含め、日本フィギュアスケート界の今後に向けてエールを。
そうですね。引退された本当に大先輩の方をはじめ、私も引退することになりましたが、今まで本当にスケート界を引っ張ってこられたかなと思います。今若い選手がどんどん出てきているので、若い選手が若いパワーでフィギュアスケート界を引っ張っていってほしいなと思っています。
―浅田さんにとってフィギュアスケートはどんな存在か?
うーん。どんな存在ですかね。いやあ難しい。一言で言うと「人生」かなと思います。
―自分を褒めたい部分は?
私は結構、飽きてしまうことが多いんです。はまってしまったらすごくはまってしまうんですけど、それがすぐに飽きちゃう性格で。でもスケートは5歳から26歳まで続けてこられたので、「長い間すごいね、続けてきたね」と言いたいです。
―ファンへのひとこと。
本当にたくさんのファンの方が私のことを応援してくださって、本当に長い間、良いときも悪いときも諦めずに応援してくれたので、私もすごくそれが励みになったし、それがすごくパワーになりました。本当に感謝しています。ありがとうございました。
―選手生活お疲れ様でした。引退の日をどう迎えたか?
発表するまで、あまり自分の中で実感というものはなかったんですけど、こうしてここに座って、今までのことを振り返りながら話していると、少しずつ引退するんだなという気持ちはやっぱり沸いてきますね。
「晴れやか」に白いジャケット
―その気持ちはどういう気持ちか?
本当にすごく晴れやかな気持ちです。
―これからスケート靴をあまりはかない生活。暖かい生活が待っているが。
1月から4月まではスケート靴を持たず、滑らずにきました。でも7月にショーがあるので、もう滑り始めます。
―何か選手生活でやり残したこと。悔やむことは。
決断をするにあたって、本当に悩みました。でも、やり残したことは何だろうって思うことがなかったので、それだけ自分が全てやり尽くしたんじゃないかなと思います。
―白いブラウスにジャケットだが、真っ白に込めた思いは?
黒のスーツか白、どちらにしようか悩んだんですけど、自分の気持ちとしては本当に晴れやかなので、この服を今着ています。
―これまで浅田さんの人生の何度も出てきた言葉がノーミス。そこまで完璧にこだわり続けたのはどういう意味があるのか?
やはり失敗はしたくないですし、これだけ練習してきているからこそ、誰もミスしたくないと思っているものですけど、自分はそんな試合に強いタイプではなかったので、あえて自分で言っていたんじゃないかなと思っています。
―真央さんといえばトリプルアクセル。トリプルアクセルは真央さんにとってどんなものだったか?
私は伊藤みどりさんのようなトリプルアクセルが跳びたいと思って、ずっとその夢を追ってやってきたので、本当に跳べた時はすごくうれしかったですし、自分の強さでもあったと思うんですけど、その半面、やっぱり悩まされることも多かったです。
―浅田選手、子どもさんと接している様子が印象に残っている。経験から日本、世界の子どもたちへのアドバイスがあるか?
そうですね。私は小さい頃から本当にスケートが大好きで、ただただスケートが大好きでやってきました。なので今から始める子だったり、頑張っている子だったり、スケートを大好きな気持ちを忘れないでねって言いたいかなと思います。
―何か今後、子どもと関わるようなことをやりたいのか?
私も本当に子どもが大好きなので、以前もスケート教室とかやっていたんですけど、また機会があればぜひやりたいなというふうに思います。
「何でもっと簡単に…」
―トリプルアクセルは強さでもあり悩まされると言った。トリプルアクセルに声を掛けるとしたらどんな言葉を掛けたいか?
うーん難しい。トリプルアクセルに声を掛けたい? うーん…「何でもっと簡単に跳ばせてくれないの」って感じです。
―続けてこられた支えとなったものは何だったのか?
一つは自分の目標ですね。それだけではないですけど、たくさんの方の応援があったからだと思ってます。
―引退決断まで時間がかかったかと思う。今年の世界選手権で平昌五輪への日本女子の出場枠が3から2になることが決まり、それをどう受け止めているのか? 引退への決断に影響したのか?
平昌五輪に出る目標をやめてしまう自分が許せるのかな、許せないのかなって思いながらずっと過ごしてきて、でも最終的に最後話し合いをして決めたのが2月だったので、世界選手権が影響したというわけではなくて、自分自身が最後決めることです。2枠になってしまったことは、残念なことではあるんですけど、やはりその2枠をたくさんの選手たちが争うので、本当にハイレベルな試合になるんじゃないかなっと思っています。
―引退を決意するまでに目標を諦めていいのかなと悩んでいたと思うが、全日本選手権の後、どなたが決断を後押ししてくれたのか?
家族だったり、お友達だったり、知っている方に相談しました。本当に皆さん、いろんなアドバイスをくれたんですけど、最終的に決めたのは自分自身なんで。その中でも旅行に行ったり、今まで行けなかった所に行ったりして、その中でも考えながら、日々を過ごしてきて決断をしました。
―21年間の競技人生、続けるのが大変だったと思うが、中でもどなたかに掛けられた一番印象に残っている言葉、一番大切にしている言葉は?
この決断をしてから本当にたくさんの方が温かい言葉を、メッセージを送ってくださったので、私自身本当に晴れやかな気持ちで今、この場にいます。なので、感謝という気持ちはこれからも忘れずに、進んでいきたいと思っています。
ソチのSP→フリーを回想
―浅田選手が試合に出始めてからたくさんの人がフィギュアという競技が日本でブームになり、日本が強くなったことについて。自分がどう力になったと思うか。自分がやってきたことが日本のスケート界で続くためにどうしたいか。
私が小っちゃいころは、伊藤みどり選手をはじめ、たくさんの素晴らしいトップのスケーターがいました。私はこうなりたいと思って、ずっと目指してやってきました。ジュニア、シニアに上がってからは、みんなそれぞれ強くて魅力のある選手ばかりが集まって、いい刺激をし合いながら切磋琢磨(せっさたくま)して頑張ってきました。それを応援してくださるメディアの方、ファンの方がいたから、ここまでフィギュアスケートもたくさん注目されるスポーツになったんじゃないかと思っています。なので、これからのスケーターの子たちには、みんなそれぞれ高め合って、刺激し合いながら頑張ってほしいなと思います。
―ソチ五輪について。ショートプログラム(SP)から20数時間の間にどう立ち直ったのか。各種報道はあるが、立ち直れたきっかけについて。
ショートが終わってからは、「あー、日本に帰れない」と思って、すごくつらい思いもしたんですけど、フリーの当日の朝も、まだ気持ちが切り替わっていなくて、「ああ、このままで大丈夫なのかな」という形で公式練習を終えました。でも、試合が近づくにつれて、メークをして、アップをして、リンクのドアを出た瞬間に、すごい会場で、「これはもうやるしなかないな」という思いが出てきて、ようやくその時に、やるしかないとうい気持ちになりました。
―終えた瞬間。
最後のポーズ、上を向いてたんですけど、ああ、終わったって思いましたね。ああ、よかったーっていう思いがすごく込み上げてきて、ちょっと涙してしまったんですけど、バンクーバーの時も悔し涙を流していたので、ああ、泣いてちゃ駄目だなと思って、頑張って笑顔にしました。
―浅田選手の卒業式かと思う。新しい道への入社式だと思う。これから不安に思っていること、違う世界に進むに当たって考えていること。
うーん、私も本当にまた新たな一歩だと思っています。でも、不安とかは何もなくて、ただただ前にある道を進んでいくだけだと思っているので、これからも新たな経験をして元気に前を見て、進んでいきたいと思っています。
―プルシェンコ選手も先日競技引退を発表した。同じ競技の仲間として、思うところは。
プルシェンコ選手も引退されたということで、私よりも長い選手生活で、たくさんの記録を残して、たくさんの人を魅了してきた選手。心からお疲れ様でしたと言いたいです。
生まれ変わったら…
―大事にしてきたこと、信念は。
うーん、ちっちゃい頃からこれは変わらないんですけど、何かこれがしたいという目標を持ってずっとやってきました。目標を達成するという強い気持ちを持ってずっとやってきたつもりです。
―忙しかった選手生活を終えて、一番やりたいことは。
1月、2月、3月と時間があったので、旅行に行ったり、おいしいものを食べたりすることができました。
―金姸児選手(韓国)と競い合ってきた。彼女への思いは。
私たちは、15歳、16歳くらいから、一緒にジュニアの試合、シニアの試合、一緒に試合に出てきました。お互いにいい刺激を与えながら、もらいながら、ずっとスケート界を盛り上げてきたんじゃないかなという風には思っています。
―最後の全日本選手権を滑ったときに「もういいんじゃないかなと思った」と言った。全日本に向けてどんな気持ちで臨んで、滑って、何がもういいんじゃないかな、と思ったのか。
試合に向かう気持ちは一つ一つの試合で変わらないんですけど、常にノーミスをする、完璧な演技をする、自信を持って滑ることを考えていました。演技を終えて、やはり完璧ではなかったですし、自分の現役生活の最高の演技ではなかったので、少し悔しい気持ちもあったんじゃないかなと思うんですけど、その後「キス&クライ」(演技後に採点を待つ席)に座って、得点が出たときに、うん、もういいのかもしれない、と思いました。全日本選手権に12歳から出場して、一番残念な結果で終わってしまって、その結果も決断に至るに当たって、大きな出来事だったんじゃないかと思っています。
―平昌までやりたいと言ったことが、引退を悩ませていたと言った。今、五輪についてどう思うか。
あと1年で平昌五輪ということで、選手のかたがたはみんなそれぞれいろんな思いを持って日々生活していると思う。私はエールを送りたいです。
―真央さんにとって五輪とはどういう舞台か。
うーん…うん、やはり、4年に一度ですし、選手である以上は私もそれを目指してちっちゃいころからやってきたので、出られて、メダルを取れたことは本当によかったと思いますし、オリンピックは本当に素晴らしい舞台だなと思います。
―生まれ変わるとしたら、もう一度フィギュアスケーターになりたいか。
うーん、今こうして26歳までスケートをやって、全てやりきって、もう何も悔いはないので、もしもう一度人生があるなら、スケートの道には行かないと思います(笑)。
―例えば何に?
いろいろありますね。やっぱり。食べることが大好きなので、ケーキ屋さんとか、カフェとか、レストランだったり。そういうのをやっていたのかなと思ったりもします。
最後は言葉に詰まる
―やり遂げるポリシーがあると言った。誰から授かったポリシーか。
やはり母かなと思います。こういう性格なので、自分が決めたことに関しては、頑固なつもりです。
―ポリシーを貫いた最初の体験は。
しっかり覚えているのは、小さい頃に、毎年野辺山合宿という新人発掘合宿が長野県であるんですけど、そこで絶対トリプルアクセルを跳ぶって決めて合宿に行って、初めて降りたのが、記憶にあります。自分で言うのもアレですけど、その時に、目標を達成するとこんなにうれしいんだ、また頑張りたいと思えました。
―結婚の予定は。
ご結婚のご予定ですか? ないです。ウフフフ。お相手がいれば、その方と一緒に帰れたんですけどね。
―(台湾メディア)例えば、福原愛ちゃんのように台湾の人との結婚は? ずっと寒いリンクにいたので、温かいところ、例えば台湾でのんびりしたりは?
愛ちゃんとお友達なので、もし台湾の方でいい方がいれば紹介してもらえたらなと思っています。行ってみたい国は台湾なので、愛ちゃんに案内してもらいます。
―プロスケーターとして、どういうスケートをしたいか。
一番近くにあるのはザ・アイスなので、まだプログラムもつくっていないんですけど、エキシビションナンバーで、スケート人生全てを注ぎ込めるようなプログラムをつくりたいです。
《最後に、立ち上がり》
皆さんきょうは本当にどうもありがとうございました。発表してからは、この2日間温かいお言葉をいただいて、晴れやかな気持ちで引退を迎えることができました。(言葉に詰まり、後ろを向く。目頭を指で押さえ、再び笑顔で前を向き)スケート人生で経験したことを忘れずに、これから新たな目標見つけて、笑顔で…(言葉に詰まる)前に進んで行きたいと思っています。(後ろを向き、また前を向き) みなさん応援どうもありがとうございました。
参照元 :
時事通信
浅田真央が引退「選手として終える決断致しました」
2017/4/10(月) 22:55配信
女子フィギュアスケートのバンクーバー五輪銀メダリスト・浅田真央(26=中京大)が10日、ブログで引退を発表した。
「突然ですが、私、浅田真央は、フィギュアスケート選手として終える決断を致しました。今まで、長くスケートが出来たのも、たくさんの事を乗り越えてこれたのも、多くの方からの支えや応援があったからだと思います。ソチオリンピックシーズンの世界選手権は最高の演技と結果で終える事ができました。その時に選手生活を終えていたら、今も選手として復帰することを望んでいたかもしれません。実際に選手としてやってみなければ分からない事もたくさんありました。復帰してからは、自分が望む演技や結果を出す事が出来ず、悩む事が多くなりました。そして、去年の全日本選手権を終えた後、それまでの自分を支えてきた目標が消え、選手として続ける自分の気力もなくなりました。このような決断になりましたが、私のフィギュアスケート人生に悔いはありません。これは、自分にとって大きな決断でしたが、人生の中の1つの通過点だと思っています。この先も新たな夢や目標を見つけて、笑顔を忘れずに、前進していきたいと思っています。皆様、今までたくさんの応援、本当にありがとうございました」(原文のまま)
参照元 :
日刊スポーツ
<ネットユーザーの反応>
「オリンピック絶望的になったからな お疲れ」
「3枠が使えないと知って逃げるように去っていったな 胡散臭すぎる」
「なんで今引退発表なのかな やっぱり2枠に減って五輪に行ける可能性が消滅したから? 3枠あったら精神的支柱枠でねじ込まれるの決まってたのか? 引退発表するなら国別終わってからにしてほしかった とりあえず国別は現役主役でやってくれ 浅田さんの引退特集やるならせめてエキシの日に 本音を言えば引退特集は別番組作ってそっちでやってほしいけど」
「まあやる気は十分だったと思うよ。膝がおもいのほか悪かったんだろうね」
「このタイミングで引退発表とはw 枠減って逃亡しやがったw」
「真央ちゃん現役引退 これは衝撃ニュースだった 完全に1つの時代が終わったな」
「フィギュアはサーカスの曲芸にしか見えない どこがスポーツなのか 真央は頭が悪う、教養も無い もっと早く引退してしかるべきだった」
「出る出る詐欺であぶく銭荒稼ぎしたもんなw」
「一流になれなかったのが悔やまれる その点、結果を残した荒川さんは異次元だと思う」
「真生叩いてる奴もオタもどうでもいい やめたのは懸命だしオリンピックの最後の演技は素人でよくわからんが本当に泣けたそれだけでいい」
「年齢制限でオリンピックに出られなかった辺りがピークかな」
「結局 ヨナ姫には勝てなかったね」
「アンチは本当に酷いね 引退スレで深夜にまで張り付いて 真央ちゃんはキム・ヨナのかませ犬として本当に素晴らしい選手だったのに!」
「強化選手辞退したらいつまで続けても文句言われないのにね 0か全部かタイプなんだろなー」
「みんな引退を歓迎しホッとしてる 痛々しくて見てられなかったからね~」
「浅田さんは、ある時期から大阪プロレスのえべっさんにしか見えなくなった」