ジャニーさん「最愛の子供たちの愛に包まれながら人生の幕」タレントとの絆の強さ 容体一時回復の“奇跡”
2019/7/9(火) 23:30配信
SMAPや嵐など数多くの男性アイドルを生み出した芸能プロダクション「ジャニーズ事務所」社長のジャニー喜多川さんが9日午後4時47分、解離性脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血のため東京都内の病院で死去した。87歳。米ロサンゼルス生まれ。6月18日に体調不良を訴え、病院に救急搬送されて入院。連日、タレントが見舞いに駆け付けた。ジャニーズ事務所は報道各社に送付した書面で訃報を報告。ジャニーさんにとって子供のような存在のタレントとの強い絆で、容体が一時的に回復したという“奇跡的な出来事”を繰り返し目の当たりにした最期の日々を明かした。
ジャニーズ事務所の発表によると、ジャニーさんは救急搬送後、集中治療室で懸命な救命措置が取られたため、一般病院に移った。病院の協力もあり、ジャニーさんは自身にとって子供のような存在である所属タレントと面会を果たした。
「ジャニーがタレントたちと過ごした病院での日々は、かけがえのない時間となりました。新旧、様々な楽曲の流れる病室におきまして、年長のタレントからJr.までが同じ空間でジャニーとの思い出を語り合う、微笑ましく、和やかな時間が流れていきました。片時もジャニーが寂しい思いをしないよう、仕事の合間を縫ってタレントたちが入れ替わり立ち替わり病室を訪れました。ジャニーの好物を皆で賑やかに食べることが日課となり、その光景とにおいから、まるで稽古場にいるかのような感覚を覚え、皆、懐かしい記憶がよみがえりました」
時に危険な状態に陥ることもあったが「タレントたちが呼び掛け、体を摩(さす)るたびに危機を脱することができました。タレントたちと過ごすことでジャニーの容体が一時的に回復するという奇跡的な出来事を繰り返し目の当たりにし、改めまして、ジャニーのタレントに対する育ての親としての深い愛情と子供たちとの絆の強さを感じました。そして、最愛の子供たちの愛に包まれながら、2019年7月9日午後4時47分、ジャニー喜多川は、人生の幕を下ろしました」。“子供”たちと過ごしたジャニーさんの最期の日々が明かされた。
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スポニチ
ジャニー喜多川さん死去 87歳 最愛の“子供”タレント達の愛に包まれ旅立つ
2019/7/9(火) 23:30配信
解離性脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血のため先月18日から入院中だったジャニーズ事務所代表取締役社長のジャニー喜多川さんが、9日午後4時47分、87歳で亡くなった。同事務所が書面を通じ発表した。通夜・告別式についてはタレントたちとJr.のみで「家族葬」を行う。後日、「これまでお世話になりました皆様にはお別れいただく機会をご用意する予定にしておりますので、決定次第、ご案内申し上げます」としている。
同事務所によると、ジャニーさんは先月18日の午前11時30分頃自宅で体調の異変を訴え、病院に向かおうとしたところ意識を失い、救急搬送された。搬送後は集中治療室で懸命な救命措置が行われた甲斐あって一般病棟に移り、タレントやJr.たちとの面会を果たすことができたという。
入院中は毎日、さまざまな楽曲の流れる病室で、タレントたちやJr.までがジャニーさんとの思い出を語り合う、微笑ましく、和やかな時間が流れていったそう。仕事の合間を縫ってタレントたちが入れ替わり立ち替わり病室を訪れ、ジャニーさんの好物を皆で賑やかに食べることが日課に。ときに危険な状態に陥ったが、タレントたちが呼びかけ、危機を脱してきた。
タレントたちと過ごすことでジャニーさんの容態が一時的に回復するという奇跡的な出来事が繰り返されたことに、事務所は「改めまして、ジャニーのタレントに対する育ての親としての深い愛情と子供達との絆の強さを感じました」とコメント。そして、最愛の子供達の愛に包まれながら、2019年7月9日午後4時47分、人生の幕を下ろした。
病に倒れる直前まで、劇場やスタジオに赴く日々を過ごしていたというジャニーさん。同事務所はそんなジャニーさんの思いについて「ジャニーが私達に最後まで言い続けていたことは、自身の意思を受け継いでくれるタレントを絶え間なく育成し、そのタレントと社員が、エンターテインメントを通じて世界中の皆様に幸せをお届けすることこそが、ジャニーズグループとして決して変わることのない思いであるということです。そして、世の中がいつまでもエンターテインメントを楽しむことができる平和で希望に満ちたみらいであり続けることを心から願っておりました」とつづった。
そして「これからタレントと社員がその意思を受け継ぎ、一人一人が役割を果たすことで世界中にジャニーの願いが届きますよう、タレントとスタッフ一丸となり精進してまいりますので、何卒ご指導賜われますと幸甚に存じます」と呼びかけている。
ジャニーさんは1962年にジャニーズ事務所を創業。昭和から平成にかけ、数多くの男性グループ、歌手、タレントをプロデュースし、国民的な存在へ育て上げた。2011年には「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」「最も多くのナンバーワン・シングルをプロデュースした人物」として、12年には「最も多くのチャート1位を獲得した歌手をプロデュースした人物」としてそれぞれギネス・ワールド・レコーズに認定されている。
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オリコン
どうなるジャニーズ事務所 ジュリー副社長&滝沢秀明氏“新体制”で世代交代へ
2019/7/9(火) 23:47配信
「たのきんトリオ」「少年隊」「SMAP」「嵐」などを発掘、育成し、男性アイドルブームをリードしたジャニーズ事務所社長の喜多川擴(きたがわ・ひろむ、本名ジョン・ヒロム・キタガワ)さんが9日午後4時47分、解離性脳動脈瘤(りゅう)破裂によるくも膜下出血のため東京都内の病院で死去した。87歳。米カリフォルニア州ロサンゼルス出身。6月18日から入院していた。
ジャニー氏の訃報を受けて、ジャニーズ事務所は今後どうなるのか。新社長には、姉の藤島メリー泰子副社長(92)ではなく、その長女でジャニーさんの姪にあたる藤島ジュリー景子副社長(52 )が就任する見通しで世代交代を加速させる。
ジュリー副社長は、グループ企業で初のレコードレーベル「ジャニーズ・エンタテイメント」の初代社長として1997年にKinKi KidsをCDデビューさせた人物。その後、嵐のプライベートレーベル「ジェイ・ストーム」や、劇場「東京・新・グローブ座」など関連各社の社長を歴任している。東京都出身で、父は小説「孤獨の人」などで知られた作家の藤島泰輔氏(故人)。
もともと、ジャニーズ事務所は稀代のプロデューサーぶりを発揮したジャニーさんと、カリスマ的マネージメントで経営を支えたメリー副社長の姉弟が中心となってアイドル帝国を築いた。90年代からはジュリー副社長も積極的に制作や運営面などに参画。TOKIOやV6、嵐などの活動に関わってきた。制作面は叔父のジャニーさんを、運営面は母親を間近に見て学び、事務所の新体制づくりを時間をかけて進めてきた。
さらに、昨年末には所属アイドルとして人気も実力もあった滝沢秀明氏(37)が芸能活動から引退し、裏方に転身。年明けから、新関連会社「ジャニーズアイランド」の社長として、ジャニーズJr.のプロデュースや新人発掘に従事。同社会長でもあるジャニーさんの後継者として、ジャニーズ事務所の世代交代に尽力している。
生前のジャニーさんは、「最も多くのチャート1位を獲得した歌手をプロデュースした人物」としてギネス・ワールド・レコーズに認定されるなど、世界的にも記録破りの制作能力を見せつけた。一般家庭から連日送られてくる膨大な量の履歴書類などに目を通し、10歳前後の少年の写真を一目見ただけで将来的に有望かどうかを見分けられると言われてきた。こうした少年たちをジャニーズJr.の一員として、先輩アイドルたちの公演などにバックダンサーとして起用。いきなり各地のアリーナやスタジアム級の大舞台に立たせるなどして経験を積ませながら才能を引き出し、芸能史に残るアイドルを多数手がけてきた。
その背中を最も近くで熱心に見続けてきたのが滝沢氏。ジャニーズJr.時代の10代から頻繁に行動をともにし、コンサートの演出にも関わりながら、時には助言するなど、タレント活動の一方でジャニーさんの右腕となってきた。
ジャニーズJr.は現在、「HiHi Jets」「美 少年」「7 MEN 侍」など有望なユニットがCDデビューを目指して切磋琢磨している活況。これまでジャニーさんが手掛けていた分野は滝沢氏が引き継ぎ、采配を振るっていくことになる。
ジャニーさんの入院中には、「ステージをつくるのはこれまでもやってきたが、メンバーと向き合うことはずっとジャニーさんがやっていた。それは新しくやるようになった」と立場も変化。経営やタレントのマネジメントを担うジュリー副社長とは密に連携を取っており、「お互いに気になったことは常に連絡を取っている。ほぼ毎日会って話をしています」と双頭体制を固めつつある。
一方、注目されるのが、近藤真彦(54)を筆頭とする「CDデビュー組」の所属タレントの扱いについて。2016年にはSMAP解散などをめぐり、事務所の運営問題が表明化している。ベテランや中堅のアイドルたちが一枚岩に結束できるのか、ジュリー藤島、滝沢の両氏の求心力が試される。
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スポニチ
ジャニー喜多川社長の美談を垂れ流し性的虐待問題を一切報じないマスコミ!元ジュニアが法廷で証言、最高裁でも確定してるのに
2019.07.11 02:21
6月9日にジャニーズ事務所の代表取締役社長であるジャニー喜多川氏が逝去し、ワイドショーのみならず『報道ステーション』(テレビ朝日)や『news23』(TBS)などの報道番組まで、ありとあらゆるメディアが横並びで追悼報道を展開している。
ジャニー社長のショービジネス、芸能・エンタテインメント界での功績、スターを多数輩出した卓越した審美眼、タレントたちとの親子のような強い絆……。湯水のようにジャニー社長賛美報道が繰り広げられているが、しかし一方で、メディアが一切触れていないことがある。ジャニー社長の性的虐待という問題だ。
実はかなり古い時代から、ジャニー社長のタレントやジュニアに対する性的虐待の告発は数多く存在した。なかでも衝撃的だったのが、1988年に元フォーリーブスの北公次が出した告発本『光GENJIへ』(データハウス)だろう。北はこのなかでジャニー社長からの性的虐待を赤裸々に記しているが、その後も元ジャニーズの中谷良による『ジャニーズの逆襲』(データハウス/1989年)、平本淳也の『ジャニーズのすべて 少年愛の館』(鹿砦社/1996年)、豊川誕の『ひとりぼっちの旅立ち』(鹿砦社/1997年)、光GENJIの候補メンバーだった木山将吾の『Smapへ――そして、すべてのジャニーズタレントへ』(鹿砦社/2005年)などの告発本が刊行され、いずれもジャニー社長からの性的虐待を訴えたのだ。
多くのマスコミは、ジャニーズタブーのため、これら告発本やその内容はほぼ黙殺、まともな検証がなされていないため、現在ではジャニー社長の性的虐待を“都市伝説”のように思っている向きも多いだろう。しかし、ジャニー社長のタレントたちへの性的虐待は都市伝説などではないばかりか、最高裁でも認定された事実なのだ。
その裁判のきっかけは、1999年に「週刊文春」(文藝春秋)がジャニーズ事務所の数々の問題を告発するキャンペーン記事を掲載したことだった。キャンペーンは10回以上に及び、そのなかでも衝撃的だったのがジャニー社長の性的虐待や児童虐待だった。
記事は複数の元ジュニアやジャニーズOBの証言をもとに、ジャニー社長の性的虐待を赤裸々に告発するものだったが、これに対し同年11月、ジャニーズ事務所は名誉毀損で「週刊文春」を提訴。そして裁判でジャニー社長の性的虐待の有無が争われることとなった。その裁判の過程で「週刊文春」側証人として元ジャニーズJr.の2人が出廷、裁判の場で、性的虐待の実態を赤裸々に語ったのだ。
ジャニーズタブーのためマスコミはその裁判の動向はほとんど報じていなかったことに加え、元ジュニアの証言は性被害というセンシティブな問題であることから非公開で行われたため、まったく外部に伝わっていなかったが、月刊誌『噂の真相』(2002年2月号)が、その証言内容をつかみ詳細を報じている。
記事によれば、証言に立った元ジュニアは2人とも未成年。2001年7月25日大阪地裁のある法廷でのことだという。証言者のひとりであるA君は仕事で夜遅くなり、電車がなくなったとき、他のジュニア数人と“合宿所”と呼ばれるジャニー社長の自宅である六本木の高級マンションに宿泊した。そんななかジャニー社長から性的虐待を受けたのだという。
法廷で元ジュニアが証言したジャニー喜多川社長による性的虐待
A君の証言によると、「合宿所で寝ていたらジャニーさんが横に来て、足をマッサージし始めた。普通に触ってきた。ちょっとイヤだった」と言い、その後、「だんだんエスカレート」し、性的な行為をされたという。これ以上は生々しいため具体的な記述は控えるが、もっと直接的な性行為などの詳細な証言もあったという。
もう一人、SMAPやV6のバックで踊ったり、CMやジュニアのコンサートにも出た経歴があるというB君も、寝ているときにジャニー社長が布団の中に入ってきて性的な行為をされたという証言をしている。
さらに、A君もB君もそろって、ジュニア仲間や先輩らの間で、こんなふうに言われていたと明かしている。
「断ればテレビや舞台に出ることができないらしい」
「ジャニーさんからそういう行為を受けたら、いい仕事がもらえる。逆に受けなかったり拒否するとデビューできない」
ジャニー社長の行為は性的虐待だけでなく、その立場や力関係を背景にしたパワハラでもあったということだろう。しかも、それを未成年者に対しておこなっていた。これら被害者証言の後には、ジャニー社長の証言が控えており、ジャニー社長もその法廷にいたという。
そして、ジャニー社長は自身の証言として「(被害者少年たちが)嘘をついている」と反論していたというが、その後の裁判の展開はむしろ、ジャニー社長のセクハラ行為を認定するものになった。
最高裁でも確定してもジャニー社長のセクハラを一切報じないマスコミ
こうしてジャニー社長の性的虐待が裁判の場で告発されたのだが、2002年3月の一審判決は「セクハラ行為の重要部分が真実だと証明されていない」という不可解な理由で「週刊文春」側に880万円の損害賠償を求めるものだった。しかし、これに対し「週刊文春」側が不服とし控訴、2003年7月の高裁ではジャニー社長のセクハラ行為が認定されるという逆転判決が出され、損害賠償も120万円と大幅に減額。判決は「逆らえばデビューできなくなる拒絶不能な状態に乗じ、社長がセクハラしている」との記載について、「被害者の少年たちの証言は具体的で詳細なのに、事務所側は具体的に反論していない」と指摘し、「セクハラに関する記事の重要部分は真実」と判断した。そして、ジャニーズ側が不服として最高裁に上告したが、2004年2月に上告は棄却、これで最高裁においてもジャニー社長のセクハラ行為が確定されたのだ。
この衝撃的な裁判は、当時、海外メディアでも大きく報じられたが、しかし国内マスコミはほぼ黙殺。ジャニー社長の行為のみならず、裁判で確定したセクハラ問題までジャニーズタブーで沈黙する日本メディアの姿勢も、それ以上に大問題だろう。
また、一部で取り上げられたとしても、当時はジャニー社長の性的指向ばかりがセンセーショナルにクローズアップされるかたちとなっていた面もあるが、ジャニー社長の行為の本質は、芸能人生の命運を握る権力者であることを背景にしたパワハラをともなう性的虐待、しかも未成年への虐待だ。
しかし当時も、そして#MeToo運動の拡大もあり世界中でセクハラ・パワハラに対する問題意識が高まっている現在においても、ジャニー社長の負の問題について、マスコミは口をつぐんだままだ。
なかには“十年以上も前の過去のこと”などと嘯く人もいるかもしれない。だが、世界的に見ても、#MeTooの発端となった映画プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインへの告発は十年以上前や数十年も前の行為も含まれており、また大きな衝撃をもって報じられたカトリック教会の莫大な人数の神父による性的虐待・隠蔽もまた、過去に遡って検証されている問題だ。
ジャニー社長が歴史に残るプロデューサーであることは否定しないが、であればこそ、正の面だけでなく負の側面も検証されてしかるべきだろう。実際、イギリスの公共放送局・BBCは、ジャニー社長の訃報を伝える記事のなかで、その功績だけではなく性的虐待問題にも言及している。しかし、上述の通り、国内メディアはジャニー社長賛美一色。『報道ステーション』や『news23』のような報道番組までもが横並びの賛美報道しかできないのは異常だ。
いまメディアで喧伝されているジャニー社長の功績とされる部分の多くもまた、男性グループを実質的に独占してきたことなど、こうしたジャニーズ事務所の強権的なマスコミ支配によるところが大きいことも付記しておきたい。
ジャニーズタブーに縛られたマスコミだが、ジャニー社長が逝去したいまこそ、こうした性的虐待、パワハラの実態を再び検証すべきではないのか。
(編集部)
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LITERA
ジャニー喜多川氏はCIA情報員だった。
1952年に日本でCIA情報員として働き、アメリカ軍のスパイのような事をしていた。
朝鮮戦争では朝鮮半島で英語と朝鮮語の通訳もしていて、語学は非常に堪能だった。
その後、アメリカ大使館に勤務した後、上智大学を卒業し、1955年にバンドを結成し芸能界デビュー。
美空ひばりの力なのか、CIAやアメリカ軍の力なのか、当時の芸能界ですぐに受け入れられた。
1952年はGHQの占領が名目上終わった年だったが、1960年に現在の日米安保条約が締結されるまで、実質的に続いていました。